Re: 労働力の支出の代価としての賃金――という範疇

http://8918.teacup.com/rev21/bbs/54

hirohiro
2008年12月21日

> No.28[元記事へ]

私の投稿に対して精密な返信をありがとうございます。労働過程論が出てくるとは多少意外ですが、杉本さんがこれまで各所で なされた投稿を多少なりとも追っていたので、納得するところでもありました。資本-賃労働関係を形態規定(=労働過程と価値増殖過程との二重性)として把 握するということ、およびその規定性が物の対象的属性として現象するがために、それを物そのものの属性として意識するという物神崇拝的転倒が生じるという こと、これらに対する批判が重要である、このようなことが問題となっていると思いました。
労働過程論に対するコメントをする前に、労働者協同組合と賃労働との関係について、杉本さんの議論も参照しつつ、私なりの見解を示しておきます。
「労働者協同組合は、労働者が出資金を出し合い、労働者が協同経営を行い、自ら労働に従事する、出資・経営・労働の合一した「新しい働き方」」という上田仁氏の定義は、共通の了解事項だと思います。このような定義として労協を考えるのならば、杉本さんが言われるように、
>資本とは、無限に価値増殖しようとする人格化した資本であり、資本家として表れる意志を持った存在なのです。しかし、労働力と労働対象諸条件との分離の なかで生産手段が資本となるのですから、労協では、それは結合されており資本関係は発生しないのです。(Re: 「労働が資本を使う」労協)
ところが問題となっているのは、>ワーカーズコープに雇用された労働者(同)ということですから、ややこしいのです。実態を精査したわけではないので、正 確なところが理解できないのですが、運営団体としては労協であるが、運営事業においては通常の雇用形態=賃労働がなされているということでしょうか。その 場合、「出資・経営・労働の合一」が成立していないのだから、その事業体は労協ではなく、私企業ということになると思います。
「出資・経営・労働の合一」が資本-賃労働関係の廃棄であるというのは、それが労働と生産手段との分離を廃棄しており、生産手段が労働者の共有となってい るという意味でしょう。つまり、生産手段の処分権として経営方針の決定権が労働者に認められているということです。出資はしているが経営に関与できない、 口出しできないという場合は、「合一」は成立しておらず、労協ではないということになるでしょう。
労働と所有の分離としての資本-賃労働関係の廃棄という核心との関連で、労働過程論が杉本さんによって展開されていると思います。長くなるので、稿を改めて考えたいと思います。

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